2021年11月12日 (金)

『下着博覧会』

☆☆1/2 二葉エマの怪演。近藤監督の色。
Haru

 私はディズニーからアダルトまで素晴らしい作品には垣根はないと考えていて、その表現でないと描けないドラマがあると思います。ピンク映画やにっかつロマンポルノ、さらにはAVと呼ばれる作品にも素晴らしい作品はたくさんあります。OP PICTURES+フェスでも城定秀夫監督の『恋の豚』や、髙原秀和監督の『人妻の教え子 ふしだらな裏切り』あたりはすごく好きでした。
 さて本作は2編の中編で構成されたオムニバス。1本目「愛は無限大」はコメディタッチの物語なのですが、正直あまり笑えませんでした。いくらなんでも詰め込みすぎで、行き当たりばったり感が強い。胸のトラウマや店長のガジェットもいかされてません。もし艶笑コメディでいくのであれば店長を主役にすべきだったし、ナンセンスコメディにするのであれば、マネキンが主役でもオモシロかったかもしれません。ブラジャーに襲われるシーンは『死霊のはらわた』のブルース・キャンベルっぽくて、そこは楽しかったです。
 2本目「春っぽい感じで」はおもしろかったですね。これはピンクならではのドラマでした。函波窓演じる美容師は自分のことを「カリスマ」と呼ばせちゃってるような男で、彼女もいるけど明らかに倦怠期。そこに二葉エマ演じる新人美容師と刺激的な関係を持ってしまいます。この二葉エマが大怪演で、函波窓がなぜのめり込んでしまったのかに説得力をもたせることに成功しています。2人のやりとりは爆笑物で、まさか題名がこういう使われ方になるとは!という驚きのシーンと、ローターを使われた函波窓のリアクションは本当に秀逸でした。近藤啓介監督については私の不勉強で長編はみていないのですが、テレビ東京でオンエアされた「直ちゃんは小学三年生」というドラマをみていました。これでもシチュエーションの作り方と、斜め上を行くセリフの出し方がおもしろくて、そのあたりのセンスが近藤監督の色なんだなと思いました。
 ただその分、割を食ってしまった印象になったのが新村あかり演じる美容師の彼女の存在。ここは新人美容師と対にならなきゃいけなかった。新人美容師はただ単に刺激がほしいだけで美容師のことは自分も気持ちよくなって楽しむための遊び道具程度にしか考えていない。一方、美容師の彼女は多分不器用でルックスや家事とかにこれといった長所とかはない女性かもしれないけれど、実は美容師のことを心から愛している。しかし美容師側はそのことのありがたみを忘れかけている。それを象徴するのが彼女の口からアレが出てくるシーンで、あれは彼女が美容師のために健気に精一杯貞操を守ろうとした証でもあるのですが、それを美容師は気づいてあげられないどころか、気持ち悪いと感じてしまうすれ違い。ここのシーンが軽く感じました。おそらく尺の関係やR-15版にするための編集によるものもあるかもしれませんが、新人美容師とのやりとりをワンシークエンス削って彼女側の芝居どころをつくったら、すれ違いのシーンに加えて、侍のシーンや最後のパンティのシークエンスもより効果的になってきたと思います。
 函波窓という俳優さんはユニークな魅力がありますね。ルックスも個性的ですし、こういうダメ男役をユーモアをスパイスにして嫌みなく演じられる。また二葉エマは要注目。今度はコメディエンヌもできそうですし、感情を抑えるような役柄もみてみたいです。
 昔から映画ではホラー(スリラー)とエロは新しい才能のショーケースとなってきました。万人に勧められるタイプではないかもしれませんが、近藤監督や若い俳優さんのような今後の活動に注目していきたい映画人の才能を楽しめる作品として、一見の価値があると思います。
(テアトル新宿にて)

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2020年8月 1日 (土)

『アルプススタンドのはしの方』

☆☆☆ 城定監督、いぶし銀の安打。
Alpsjojo
 個人的にずっと応援してきた城定秀夫監督の新作となるこの一般作品は、青春映画の良作として、期待に違わぬ出来映えとなっていました。
 夏の全国高校野球大会での応援席で繰り広げられる高校生たちの人間模様を描いているのですが、十代という時代をどう生きるかという点では、『ブレックファストクラブ』だったり、『桐島、部活やめるってよ』などに連なる視点を持っています。だだ城定作品らしくすべてのキャラクターをあたたかく見守りながら、それぞれを生き生きと表現することで見応えのある展開になっています。

 と、城定作品でなければここで終わり。めでたしめでたし。

 ですが、これはあの城定秀夫監督作品。みている立場も、やっぱり「しょうがない」ではダメな気がして、ちょっとここで終わりにしたくない(汗)。城定作品を贔屓にする映画ファンの心のモヤモヤとして以下は聞いてください。

 本作が城定作品の最高傑作であるかと問われたら、私は「違う」と答えるでしょう。そしてそれは私だけではなく、今までの城定作品をご覧になっている方であれば、同様な答えになる人は少なからずいるような気がします。もちろん平塚球場が甲子園球場にどうやってもみえないとか、日本のサウンドデザインが海外作品とは圧倒的に質が違う(野球観戦をしている人であれば感じたと思いますが、このリアリティの無さは勿体なかったです)とか、作品の製作規模に関することは前向きな気持ちで「しょうがない」と諦めましょう(汗)。
 やはり大きなポイントはメディアとしての演劇と映画のフォーマットの違いだったと思います。
 ステージを映画にするのはなかなかの難題です。それはステージ中継と映画が別であるという点でもわかります。そして本作は結果的に過去の城定作品と比較すると、大きな魅力を2つ失っていたと考えます。ひとつは画で物語を語る点があまりにも欠けていることです。カットバックをせずにワンカットのグループショットにしたという点を「映画秘宝」のインタビューで語っていましたが、どうもその選択肢が効果的ではなかった気がしました。オープニングの演劇部員の安田の回想がとても効果的だった、という点でもわかります。もともと高校演劇の作品だった本作。私は演劇に興味もある人だったので、偶然にも私はもとになる舞台をEテレでのオンエアでみていましたが(筆者注:Eテレは全国高等学校演劇大会の模様を「青春舞台」として放送している)、ステージ版でも試合の様子は出てきません。しかし元のステージが巧いなと思ったのは場面転換ができない演劇の特性を逆手にとって観客の想像力が補うだけでなく、それが作り手のイメージ以上の物をイメージする相乗効果となっていること。つまり観客それぞれがイメージするのは試合だけでなく、登場人物と同じ「青春」という時間でもあったということです。つまりこの物語が演劇のためであったという何よりのポイントでした。その点で映画が選択したグループショットは彼らの関係性の表現としてはわかりやすかったけれど、それぞれのキャラに感情移入するための何かが足りなかった気がします。このあたりは大林宣彦作品の表現と比較するとすごく興味深い気がします。またそんな意味でも、もし一連の城定作品を支えた田宮健彦カメラマンが本作の撮影だったらどうなってたかな?という気持ちがあります。
 もうひとつはセリフの力に頼ってしまったこと。もっとまなざしや表情、仕草など俳優たちの肉体で表現してよかったのではないかと思うのです。とくにクライマックスのセリフの応酬は登場人物たちの独白めいた部分が強くて、映画というフォーマットでは必要なかった気がしました。耳をつんざくようなブラスバンドの演奏と大きな声援という環境音の中で彼らが汗を流して「がんばれ!」と叫ぶだけで充分だった気がするのです。
 そしてこうやって並べた演劇と映画の違いという点は、同じように成人向け作品と一般作品という表現の違いでもあったのかもしれません。それは製作規模の違いではない。今までの城定作品だって潤沢な予算や恵まれた環境ではなかったはずですが、例えば私の大好きな『僕だけの先生 ~らせんのゆがみ~』や『悲しき玩具 伸子先生の気まぐれ』で描かれた物語の方にも青春を感じてしまうのはなぜだろう?という問いなのです。今回、私が想起したのは原恵一監督のことでした。クレヨンしんちゃんの劇場版で傑作を手がけている原監督ですが、しんちゃんを外れてから手がけた作品には、それを上回ったという印象は私にはありません。製作時には制約となっていたしんちゃんというフォーマットが、結果的に原恵一監督の表現を輝かせていたのかも、という逆説的な結果です。(ちなみに柳下毅一郎ら一部批評家が一般的な評価よりも先回りして熱狂的に評価していた、という点でも城定監督と共通しています)
 逆に言うと城定監督の過去の作品はとにかく官能的であり、エモーショナルでした。それはどこからきたのかと言えば、やはり画と登場人物で物語を伝えるにあったと思います。つまり映画として魅力的だった、ということです。本作も充分に楽しめる作品だと思いますが、城定作品の凄さはこの程度ではないぞ!とも言いたくなるのです。そう、多分私の最大の不満は、この物語は城定監督でなくても描けたものではなかったか、という点なのかも知れません。もちろん本作の魅力は城定監督の演出力が大きいことをわかった上で、あえて述べていますが。

 ですから。本作は城定監督、いぶし銀の安打と呼びたいです。そして本作が城定秀夫という名前を知るきっかけになるのだとしたら本当に嬉しいです。でも本作だけで城定秀夫をジャッジしないで欲しいという気持ちもあります。もし城定作品を他にみたことがないという方は、ぜひいろいろとみてください。性的な表現が苦手な方もいらっしゃると思いますが、性を題材でとりあげるものでしか描けない物語もあり、映画として優れている点では太鼓判を押します。そして私のような城定作品ファンは、もちろんまた「次」も期待しましょう。

 最後にプロデューサーの久保様。いつか書こうと思っていましたが城定作品ファンとしては、本当に心から感謝しています。今まで秘宝のインタビューやネットでの発言などでしか私は存じませんが、本作をみていて、間違いなくこの作品は久保Pあっての映画だと思いました。あなたが送りバントや犠牲フライだけでなく応援団もやっているから、作品が完成しているのでしょう。ひょっとするとこの中にいるキャラクターたちも城定作品の現場でもあるのかな? 久保Pは厚木先生みたいなのかな?なんて邪推したりしました(笑)。いずれにせよ、原恵一監督にも茂木仁史というプロデューサーがいらしたからこそで、城定監督には久保P、ここまでのフィルモグラフィが連なったのは城定監督は本当に幸せなんだと思いました。これからも素晴らしい作品を期待しています。

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2020年2月18日 (火)

『小さな学校』

☆☆ 村上監督にとっての『スパルタカス』
 村上監督作品では唯一未見だった本作。フィルモグラフィ上では2作目となる本作は、閉校が決まった在籍児童数6名という小規模な小学校を追いかけています。『流 ながれ』でも組んだ能勢広カメラマンとの共同作品。この後『無名碑 MONUMENT』となるわけですが、『無名碑 MONUMENT』からはご自身でカメラを回していらっしゃいます。以前「自分で回してみたくなった」というお話をされていたのですが、本作をみるとそれが理解できた気がしました。
 この映画は記録映画として優れてる面はありますが、完成度という点では他の作品と比較すると、うーん…となるところがありました。何というか、学校生活の中で一番面白い部分を掴み損ねている気がするのです。長期取材によって生まれた『流 ながれ』で描かれた圧倒的な時間軸の圧縮と比較すると、いかにも淡泊な上に、核となる存在がはっきりしなかったために、「学校とは何か?」というもっとも観客が興味をもつ部分が描ききれていなかったのではないでしょうか。
 『流 ながれ』もそうでしたが、本作も構図が実に端正です。わかりやすく正面を見据えて、奇をてらうことなく記録映画としてのセオリーをきちんと守っています。ところがこれは諸刃の剣で、映画的な興味でいくと変化が少ない分、全体の構成に起伏が少なかったり、先にこんなことが起きるのではないかと逆に予想しやすいという面があります(ちなみに『流 ながれ』はそれを長期撮影という別の強みがあることで、作品全体の時間軸を圧縮したことで見応えを生み出していました)。一方、村上監督自身が撮影された構図は、『東京干潟』のようにドキュメンタリーというよりは劇映画的な奥行きのあるフレーミングが多く、とてもドラマチックなのです。もちろん作為的になってしまうというデメリットはありますが、村上監督は自らと対象者の交流をもドキュメントにすることで、そこを逆手にとっています。本作での一輪車に乗っている子どもたちのシークエンスと、『東京干潟』でしじみのおじさんを自転車でずっと追跡するシークエンスとを比較すると、両者の資質の違いがくっきりと浮かんでくると思います。
 ラストの校歌のシーンはよかったですね。あそこは村上監督らしいと思いました。それもふまえると。きっと村上監督は編集をされていて、子どもたちや先生に話しかけたくなったのではないかと、感じたのです。なぜなら学校とは、人が集まり人が交流することで生み出される空間であること、そしてそこにいる人たちの存在によって化学変化が生まれ、大きく姿を変える場所だからであるからです。つまりここでは、はっきりともっと人にクローズアップするべきでした。例えば校長先生(村上監督の王道でいくならば、これな気がします)、例えば担任の先生、もっといえば児童は1人でもよかったかもしれません。もし『東京干潟』のように、校長先生と監督がやりとりしていたら、異色の学校物になっていた気がします。
 本作は村上監督にとっての『スパルタカス』(S・キューブリック)なのかもしれません。しかし村上監督のフィルモグラフィを俯瞰した場合、絶対に見逃せない作品です。ここでやりたかったことが『無名碑 MONUMENT』へとつながり、『無名碑 MONUMENT』での経験が、『東京干潟』『蟹の惑星』につながっています。機会があればぜひ。

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2019年8月28日 (水)

『蟹の惑星』

 ☆☆☆ 蟹がスゴイ。干潟は浅いが深く、人生も深い。
0005 もうこの題名でつかみはOKですよね。だって『蟹の惑星』ですよ! 淀川さんだったら「さあ、かにのわくせい、かに、かに、このかに、なんでしょうねぇ・・・」なんて名調子が続くかも知れません(笑)。題名とチラシをみて、みたい!となっていた1本は、視覚的なおもしろさに充ちた秀逸な作品となっていました。でもそれだけではなく、『東京干潟』と共にみることで人間への深い洞察力を備えた豊かな作品でもありました。

 すごかったのはやはり蟹の映像です。単純にすごかった! 花、虫、動物、それぞれに面白さはあると思うのですが、蟹が被写体としてとにかく魅力的。美しさ、かわいらしさ、グロテスクさが渾然一体となって、まるで『スターシップ・トゥルーパーズ』のバグたちみたいで、動く動く。そしてそれをきちっと魅力的にとらえています。小さな物を大きく写すだけでも映像はぐっとオモシロくなりますが、とにかく今までみたことがないものばかりでした。よくぞ、これだけ映像に収められましたね!と驚くばかりです。予算規模的に必要最低限のセットアップの中で、レンズなどの機材のセレクトや、撮影方法など技術的な裏話は尽きることがないのでは、と思うほどすごかったです、間違いなく労作です。

 さて。本作で意見が分かれるかも、と思ったのは蟹の観察をしている吉田さんの存在です。この映画に関しては吉田さんの比重のかけ方が難しかったと思います。吉田さんの解説が加わることでわかりやすく、観客の知的好奇心を刺激するという点も事実ですから、入るのはおかしくない。でも蟹の映像の方が圧倒的に魅力的なので、観客の立場からすると、吉田さんより蟹がみたい(汗)。ご自宅の様子とお孫さんのエピソードは不要と感じる人はいると思います。ただ、もし『蟹の惑星』が吉田さんをただの解説者にしてしまったら、これは干潟の映画ではなく、蟹の記録映画になります(それはそれで魅力的な気はしますが(汗))。ではなぜそうしなかったのでしょうか。

 やはり本作は『東京干潟』と一緒にとらえなくてはいけないのではないか、と思いました。というのも『東京干潟』をみた後で、私の中の疑問として浮かんでいたある点が、『蟹の惑星』をみてあっさりと氷解したのです。『蟹の惑星』が驚くほど『東京干潟』と表裏一体となっていたことで、監督の狙いがくっきりと浮かび上がってきました。端的にいってしまえば、しじみが蟹であり、吉田さんがしじみのおじいさんなわけですが、ただ比重の掛け方が違う。『東京干潟』の主役はおじいさん、『蟹の惑星』は蟹。じつはこの比重の違いもカギになっています。

 芸術表現の中には、いくつかを組み合わせてとらえることで、意味が変わってくるものがよくあります。映画の場合にも、もともと関連があったり、結果的に関連することになったり。有名なところではイーストウッドの硫黄島2部作がありますが、あれは同じ時刻の同じ場所を視点を変えて描くというアプローチで硫黄島での激戦を描き、それでいて実は描こうとしている戦争の虚しさは共通していて、それが1本で描くよりも、よりくっきりと浮かび上がっていました。村上監督はさまざまな生き物が共存する干潟という不思議な不思議な場所をとらえるにあたって、何よりその多面性をとらえたかったに違いない。監督は『東京干潟』と『蟹の惑星』がもともとは1つの作品で構想していたと語っていらっしゃったのですが、でもその多面性をとらえるには1本の作品ではない形の方がよいと考えたのだと思います。(最初はオムニバスっぽいものをというのも頷けました)。

 疑問だったのは、自然を題材にしたドキュメントにありがちな、干潟保護という観点での自然保護を声高に訴えるようなメッセージ性が『東京干潟』には希薄だったことです。というのも明らかに干潟を危機にさらしているのは人間ですから(汗)、そちらに怒りの矛先が向いても仕方がない題材です。でも村上監督の狙いはそこではないのかな、までは思っていました。しかし今ひとつ、おじいさんにフォーカスした構成に監督の狙いまでは『東京干潟』だけでは私にはみえてきませんでした。
 両作をみおえて、自然と人間とどちらにフォーカスしたかが大きな違いなのですが、逆に共通点はやはり2人のおじいさんです。別の作品で並行して描くことで、監督が作品の中で人間をどうみつめているかをはっきりと浮かび上がらせています。それは経済的なものとか能力の優劣とかではなく、その人がどんな生き方をしているか、という点です。2人のおじいさんが抱える現実の違いはやはり大きく感じます。もし1本の作品でやっていたら、どうしても比較が生じるでしょう。でも2作にわけて作品内で描く比重のかけ方も変えたことで、観客側の受け取り方が変わるのです。キャットフードや道具が並ぶ小屋と、蟹の資料がずらりと並ぶ部屋が同じに見えた。孫の話と猫の話が重なった。どちらの生き方がいいとかじゃなくて、どちらのおじいさんも「元気かなあ」なんて思ってしまうのです。
 人間から虐げられたネコたちや、小さな蟹たちの姿にフォーカスしながら、干潟を通して干潟にいる2人のおじいさんと知り合うことができた。その姿を見つめながら、できれば、しじみもネコも蟹も、もちろんあの2人のおじいさんたちも干潟とともにこれからも生きていけますように、という祈りにも似た監督の願いがくっきりと浮かび上がってきます(『東京干潟』のクライマックスでの祭り囃子は、『蟹の惑星』をみていないと全く受け取る意味が違うと思います)。そしてそれをみた私たち観客も、どちらのおじいさんのような人生にもなる可能性があるけれど、きっと誰とも違う人生をこれからも歩んでいく。そんなたくさんの人たちがまるで干潟のように共存できるといいなあ、と願うのです。このような様々に多重化した面白さが『東京干潟』と『蟹の惑星』両作で生み出される真骨頂なのです。

 実に豊かな時間を過ごすことができた、みてよかったと思える2作品でした。これからも上映の予定があるそうです。その時には紹介したいと思いますので、ぜひ機会をみつけてご覧いただければと思います。(ポレポレ東中野)

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2019年8月24日 (土)

『東京干潟』

0001_20190825103701 ☆☆☆ 重なりからみえてくるものの重み
 待望の村上監督の新作は、実に見応えのある力作でした。しかし私が事前にイメージしていた穏やかなものだったかいうと、そうではなく、むしろいろんなものが小さなトゲのように突き刺してくる鋭さも持ち合わせている作品でした。

 このしじみのおじいさんの行動は昨今のポリコレ的な発想でいけば3秒でツッコみどころ満載かもしれません。住居も、しじみ取りも、ネコの保護も。台風で水浸しになるなら引っ越せばいい、という自己責任論も容易に出てくることでしょう。でもおじいさんの行動が正しいかどうか、意味があるかどうか。そんな物差しではなく、そこに命があることを受け止めることで始まる営みを描くことで、その重みをこの映画は見つめています。

 村上監督の過去作『流 ながれ』も、自分の興味で始めた行動が、当人も思ってないような意義に変質していく過程を誠実にとらえていました。本作でもしじみのおじいさん当人は、自分の生き方にはそれほどのものはないと思っているのですが、少なくとも凡百のよくある生き方でもなく、さらに本当に絶句するような過去もあるという人物が中心となっています。そしてこれも『流 ながれ』ですでに萌芽となって現れていましたが、村上監督はそれを誇張しません。悲愴感も不幸の押しつけも感動的な空気もありません。これは大きな特徴だと思います。これはインタビューをする村上監督の声が、一般的なドキュメンタリーよりも多めに入っていることも関係していて、孤立感から来る寂しさが希薄だったのは、監督との関係性を見せていたからだと思いました。

 『流 ながれ』とは大きく違っていたことが2つありました。ひとつめは撮影です。この映画は監督自身がカメラを回しています。フィックスでどっしりと構えた落ち着きは同じですが、今回は実に印象的な構図が多くとらえられていました。背景に映り込むのは羽田や川崎市の臨港地域ですが、この背景に大きな意味があります。川崎市は今でこそ川崎駅前や武蔵小杉の大型商業施設の成功もあって、住みたい街にランクインするところもあります。しかし南北に長いこの市は南部と北部ではまったく街の性格が違い、特に南部は再開発が進んで大型集合住宅が増えているとはいえ、埋め立て地に工業地帯がひろがり、在日の方や外国籍の方、低所得者層も数多く住んでいます。路上生活者の姿も珍しくなく、時にそういった犯罪(多摩川河川敷での少年犯罪もこのあたりで、記憶に新しいですね)のニュースが世間を賑わせることがあります。また2016年に公開され、観た人の気持ちをどん底に叩き落とした平山夢明原作の映画『無垢の祈り』のロケ地がこのあたりの地域で、もう私としては、その物語にあまりにぴったりな空気だという事実が逆に辛くなったという、そんな独特の雰囲気があります。でも。表には出てこないかもしれないけれど、ここは私たちの繁栄を影で支えてきた人たちの町だともいえます。飛行場や発電所、工場のように住宅地には邪魔な物。けれども我々には必要不可欠な物が集められている。そこがおじさんのしじみ漁の背後に何度もうつってくる。そんな重なり方が雄弁に『東京干潟』という映画で村上監督が紡ぎたい物語を語っています。またナイトシーンの見えない暗がりをしっかりと画で表現した点も効果的でした。
 もう1つは音声。背景の環境音がこれまた実に印象的です。ただ集音マイクでそのまま拾った感じではなく、きちんと整音されて、聴かせたい部分に音がフォーカスされているので、これが映像と重なった時に、その時の映像の印象を増幅させています。セミの鳴き声、飛行機、ヘリコプターや工事の音。あとで監督のインタビューを読むと、やはり神経を使われていたことがわかったのですが、干潟やおじいさんの家の空気感にリアリティがあったのは、観客が村上監督と共におじいさんと一緒にその場にいた状況のように思わせる部分で、これまた大きな意味があったと思います。

 さて私が前述したトゲはいったいどこにあるのかなのですが。この作品は「重なり」で表現されていることを観客が自分の思いを巡らせる映画だと言えます。映像や音声での演出が示すように、多くの要素が複合的なメタファーとなっているのです。したがって、トゲは表出しているのではありません。まるでしじみ漁を手の感覚を使いながら行うように、村上監督の演出によって、観客がその演出意図を受け止めるという中で、こういうことなのかな、という気づきが隠れているように思うのです。
 例えばネコなのですが、一番幸せな状況というのは、あのネコたちがいないことなのです。なぜならあそこにいるネコたちは捨てられてしまったネコなのですから。またネコはとても勝手気ままな存在なので、ひょっとするとおじいさんのことをネコはえさの手段程度にしか考えていない現実もあるかもしれません。けれどお互いが支えになっている現実は間違いなくある。そしてその現実が日常をつくっていて、その日常は私たちからはあの多摩川の景色の中に表面的には隠れているようにみえています。おじいさんは片眼の視力はほとんどありません。けれどその事実は遠方から接している時には気がつきません。そもそもその理由すら気にかけない。でもクローズアップと俯瞰が映画の中で「重なり」を繰り返していくうちに、私たちは気になっていく。橋脚の工事をみておじいさんは工事の過程をすらすらと説明する。おじいさんの過去と結びつくだけでなく、おじいさんにとってはそれがもたらす未来をみている。おじいさんの雇っていた人たちと保護したネコ。おじいさんが作ってきた建造物としじみ。おじいさんの小屋と集合住宅。長い時間をかけて生まれた干潟と一瞬で破壊する工事現場。多くの「重なり」が、観客の中におじいさんへの「へえ!」と「すごいなあ」と「大丈夫かなあ」という感情を複合的に呼び覚ますのです。クライマックスの台風部分で(非現実的な)祭り囃子が響くことが強く印象に残ります。村上監督がこの状況をポジティブに見つめ、おじいさんが困難に負けずにこれからも生きていてくれますようにという願いのように祭り囃子が聞こえてきます。

 残念だったのが構成の部分で、特にテロップが多用されはじめた後半部分で作品のリズムが変わってしまった気がしました。こういう作品で緩急をつけるのは難しいと思うのですが、映画としてみた時に、河口部での工事がはじまったあたりから、駆け足な感じになってしまったのです。全体のバランスとしてみた場合、紹介としての前半、おじいさんの人生の中間、そして工事が始まった後半部分で、後半部分の印象が他の部分より希薄になってしまった気がしました。あそこでもう一度、それでも変わらぬおじいさんの日常でもよし、変わり始めた村上監督の関係でもよし、じっくりと流れるようなテンポがあった方が台風のところはより効果的だった気がします。

 私たちは現実の中で見えていても気がつかない物がたくさんあります。この作品はそこにスポットを当てながら、「重なり」からみえる重みも伝えています。そして私たちに違う物の見方を示唆して、ちょっと立ち止まる時間を与えてくれます。シネコンで公開される映画群に紛れ込んで気づかずにいるのはもったいない、小品ですが豊かな作品です。おじいさん、ネコ、干潟、どこが入り口でも構いません。けれどみおわったら、きっと次にみる景色への印象は変わっているはずです。(ポレポレ東中野)

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2019年8月 5日 (月)

『アポロ11:ファースト・ステップ版』(鹿児島市立科学館)

 『アポロ11』についてのことは、前回のブログ記事を読んでいただいて。その中で驚いたのが70ミリフィルム映像がアーカイブで発見されたという事実。そもそも機動性を考えたら記録映像で70ミリフィルム(正確には65ミリフィルムですね)で撮影したなんてビックリですが、それだけの価値があると予算も割かれたのでしょう。一体どんな映像になっているのかなあと思ったのですが、まさかまさかの日本公開。しかも鹿児島市立科学館では70ミリフィルムによるオムニマックス上映というニュースが! これは行くしかありません。が、でも遠いなあ・・・というのが前回まで。

鹿児島、行っちゃいました!(笑)
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久しぶりに映画のための遠征です。(もうそれだけで大興奮です。)
まず立地ですが(あくまで旅人向け)鹿児島中央駅からだと徒歩は辛い距離です。公共交通機関利用となると鹿児島中央から市電、バスなどでとなります。トータルで30分ぐらいみておくとよいのではないでしょうか。ちなみに火曜日が休館、さらには平日は本作の上映が1日1回(土日祝のみ16:10の回があり)なので気をつけてください。
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 科学館自体はあまりゆっくりとできなかったのですが、オーソドックスな感じの施設でした。さあ、いよいよ5階の宇宙劇場へ。ロビーには作品についての解説類が。
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 さすが、科学館な展示です。おおっ、なんと映写室がガラス張りになっている!
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 おおおっすごい! 私も何回かはみたことがありますが、今となっては国内でも貴重な施設です。大興奮している私ですが、一緒の回をみる予定の親子連れは、同時開催の展示関連で同じく映写室内の並べられていた虫かごの昆虫たちにガラス越しに大興奮(笑) 映写室内がきっと空調が効いていて過ごしやすいからかなあと察しましたが、君たち、文化とは昆虫も大事だが、失われゆくものの方が価値はあるぞ、きっと(汗)。ほら、これがプラッターで、そこに巻かれてるのがフィルムで、ねっ!幅が広いでしょう?!と力説したくなる気持ちをグッと抑えます(大汗)。上映後には映写技師の方の作業の様子も。お疲れ様でした。(凝視してスミマセン(汗)。)
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入り口には過去の大型映像作品のポスター類が(入場時にしかみられないのはもったいないです)掲示されていました。

 さて上映スタート。かつての映写室とおぼしき窓が完全に目隠しされていたので、一体どこから映写するのだろうと思っていたら、ドーム中央部のプラネタリウムの投影機が降下し、ぬわんとすぐ席の隣(ドーム中央部中央通路沿いのオレンジのところ)から上映用の映写ガラス部が出現! 映写機の音が思いっきり聞こえます。まあ気になる方にはかなりノイジィだと思いますが、個人的にはあのカタカタとしたフィルム映写機の音すら愛おしく感じます(汗)。まずは予告があって、字幕なしな点からも、もともとのプリントについていたのかなあと推測。これはいわゆる通常のIMAX画角で、まあ、こんなもんかあと思ったら、ここからが本領発揮。本編はいきなりの全天周ドーム映写へ。
驚き、しかなかったです。
この質感、すっかり忘れていました。IMAXのフィルム版をみるのはいつ以来でしょうか。でもそこでみたのはやはり驚愕の映像でした。この映像の情報量はすごい。これだけ大きな映像なのに破綻がない。ウソっぽくない。確かに場内はシネコンから比較すると明るめだし、コントラストや先鋭感には欠ける部分はあります。ドームに投影なのでドーム壁面の継ぎ目の目立ち方は一般的な映画館とは比較にならないぐらい目立ちます。音響も悪くはないですが、最先端とは言えません。でも。圧倒されます。特にサターンロケットが打ち上げられる時のショットは、画質は事前情報から考えても65ミリカメラで撮影されたものではないか思われましたが、一緒に私も見上げている感覚になりました。この没入感はこれでしか味わえないでしょう。

 実はラージフォーマットと呼ばれる上映形態に関しては、IMAXやScreenX、ドルビーシネマなど、近年さまざまなトピックがありました。また70ミリプリントによる上映という括りで拾っただけでも、注目すべきトピックが多かったのです。例えば海外ではC・ノーランやQ・タランティーノが撮影時からのこだわりで上映時にも70ミリプリントによる上映を希望したり、定期的に上映している映画館があったりしています。一方国内ではフィルム上映がどんどん少なくなり、70ミリプリントの上映可能館が絶滅状態である中、国立映画アーカイブ(導入当時はまだフィルムセンター)が70ミリ上映設備を稼働できるようにさせたことは大きなニュースでした。2017年、記念すべき上映1作目の『デルス・ウザーラ』はプリント自体の状態の良さに驚愕しましたし、2018年の『2001年宇宙の旅』は前売りがプラチナチケットと化したために、当日券を求めるために早朝から並んで国立映画アーカイブで鑑賞し、これもまた素晴らしい経験でした。ただ『2001年宇宙の旅』はもちろん映像は凄かったけれど・・・でも私は、後で成田HUMAXシネマズでみたIMAXデジタル版の素晴らしさを上にとりたいのです。確かに画調は違いました。70ミリプリント版の宇宙の表現はおおっと思ったし、フィルムってこうだよなあとも思ったけれど、やはり70ミリプリントでの映写はあの国立映画アーカイブ程度のスクリーンサイズで上映するためのフォーマットではないと思うのです(もちろん上映自体は快挙で、この試みは諸手をあげて大賛成だというのはあらためて述べるまでもないですが)。だって32インチモニターで2Kと4Kの比較をブラインドでやってみたら、どっちがどっちだか相当迷うと思います(汗)。70ミリフィルムの真価は大型スクリーンでの上映で、さらに発揮されるのです。

 そんな中での今回の上映は間違いなく貴重な体験でした。オムニマックスでの上映というのも大きかった。過去に数回体験している中で、一番強烈だったのはやはり筑波万博の富士通パビリオンで上映された「ザ・ユニバース」でした。あの大口孝之さんもこれで人生が大きく動いたとおっしゃってました。この没入感はオムニマックスという上映形態ならではです。しかし全天周映像でオムニマックス(IMAXドーム)のようにフィルムで稼働しているところは現在ありません。有名なところでは浜岡原子力館も現在はデジタル素材のみの上映になったようですし、北九州スペースワールドのギャラクシーシアターも2017年で閉館になっています。まあ多分コストパフォーマンスとか作業効率でいったら、あのとんでもない総重量になるフィルムでいくならばIMAX2Kデジタルの方を選択するのは仕方がないと思います。でも。本作のデジタル素材をまだIMAXドームで鑑賞していないので断言はできないのですが、今回の上映をみると、70ミリプリントにアドバンテージがあることを再認識しました。実際近年のDCPの優秀さは素晴らしいと思います。でも大画面でみた場合、それは物の輪郭表現だったり、色味だったり、漆黒の深さだったり、細かい物差しをあげていくと大きな差ではないのかもしれません。でもトータルのパッケージとしての「画質」でいうならば、私が考える以上に情報量に大きな差がありました。

 私自身、IMAXフィルム上映に限定してもいろんな思い出があります。IMAX上映専門館としてオープンしたタカシマヤタイムズスクエアの東京アイマックス・シアターでみたジャン=ジャック・アノー監督のIMAX史上初の実写ドラマ『愛と勇気の翼』(しかも当時は珍しい液晶シャッターメガネによる3Dだった)。凄まじい創作過程で知られるアレクサンドル・ペドロフの『老人と海』。通常版とは完全に別物だった『ファンタジア2000』。あの真賀里文子さんが作った全編ストップモーションアニメ(!)のIMAX作品『天までとどけ』。そしてわざわざ大阪までみにいった『U2 3D』。みんな大きい画面での上映に意味がありました。『U2 3D』なんてデジタルの通常上映版とは別世界で、メンバーと一緒に演奏したような臨場感があって感動が段違いでした。迫力とか臨場感とか没入感とか、いろいろな表現ができると思いますが、こういう家庭では実現できないスケールとクオリティがあるということは、結局「映画館にみにきてよかった」という言葉に尽きると思うのです。
 もちろん誰にでもすすめるものではありません。わずか45分、中身は真面目なドキュメンタリー、しかも鹿児島(神奈川在住の私としては、これが動機の1つで鹿児島に出かけたというのは、なかなか理解してもらえないことの方が多いですね(汗))。映画好きな方でもこういう方面に興味がある人にでないと、という条件付きではあります。でももし、あなたが映写機の話でわくわくするならば。70ミリとかシネラマとかIMAXという言葉で心躍るならば。国立映画アーカイブでの70ミリ上映で感動したならば。あなたにとって忘れがたい映像体験となることでしょう。そのぐらい素晴らしかったです。ぜひご自身の目で確かめてみてください。

 

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2018年5月 4日 (金)

NTL『エンジェルス・イン・アメリカ』

Ntl2018_2  『エンジェルス・イン・アメリカ』の舞台版がナショナル・シアター・ライブで上映されました。第一部と第二部あわせて約8時間にもなるこの作品、まさか日本でみることができるとは! もうそのこと自体が"Great work!"なのかもしれません。

 私がこの作品を知ったのは、本作の第一部がトニー賞を席捲した1993年、その受賞についてのニュースで、でした。何しろトニー賞だけではなく、のちにピューリッツァ賞までさらうのですから、どこまで凄い作品なのだろうと興味を持ちます。次にこの作品の題名を耳にしたのは、本作がTVミニシリーズとしてドラマ化されて、2004年のゴールデングローブ賞とエミー賞のほとんどをかっさらった時でした。何しろGGの方では最多タイとなる11部門受賞(28年ぶりの快挙)、エミー賞はミニシリーズが獲得できるものを完全制覇してしまったのです。つまり演劇、映像の最高峰の賞を本作一作で独占したことになります。しかも映像化に関わったその顔ぶれがすごい! 監督はマイク・ニコルズ、音楽はトーマス・ニューマン、出演はアル・パチーノ、メリル・ストリープ、エマ・トンプソン! (ちなみにアル・パチーノとメリル・ストリープという当代随一の名優が共演したのは本作のみ) そして2004年末に日本ではそのミニシリーズがWOWOWでオンエアされ、私はそこでみることができました。
 感想は・・・難しかったです(汗)。実は最初はよくわからず途中でみるのをやめてしまいました。とにかくもの凄い情報量な上に、その当時の社会背景やアメリカ近現代史の出来事をわからないと理解できない部分が少なからずあったからです。そのあと(2年近くたって!)ひょんなことから再挑戦したのですが、一気にのめり込みました。当時の興奮ぶりが、このブログにも記載されています。

『エンジェルス・イン・アメリカ』
『エンジェルス・イン・アメリカ』全体の感想
『エンジェルス・イン・アメリカ』自分の中での2つのツボ
素晴らしいスタッフ&キャストたち

閑話休題

 さてステージ版ですが、本当に素晴らしかったです。これはアメリカ近現代史や同性愛やゲイといった事項に関心がある人はもちろんのこと、何より演劇が好きな人は絶対に足を運んでもらいたいと思いました。
 映画版を私は先にみているわけですが、基本的な構成はほとんど変わっていない思いますが、あらためてミニシリーズ版は映像という特性を実にうまく生かしていたのだなあと感心しました。一方このステージ版は何が違うかと言えば、演じ手のライブ感につきると思います。かなりシリアスな印象だったミニシリーズ版と比較すると、ステージ版はお客さんが笑うところがいっぱいありました(私が単に笑うツボに気がつかなかっただけかもしれませんが)。どこかミニシリーズ版が俯瞰的に、つまり神の視点のような冷静さがあったのに対して、ステージ版は観客のいるところに登場人物たちも一緒にいて、そこに天使たちがやってくるという感覚でしょうか。だから第二部のクライマックスとなる天国でのやりとりの印象が全然違いました。プライヤーが語る「それでも生きたい」にあれほどの説得力があるのは、ステージのライブ感としか言い様がありません。
 またある程度の時間がたったことで私たち観客が、あの時代をみつめる視点を得たこともステージ版の演出に少なからず作用している気がしました。トニー・クーシュナーがゲイカルチャーやユダヤ人という立場からのパーソナルなものだったはずなのに、さまざまな被差別の要素も巻き込んで、そんなマイノリティーたちと共に生きることの重要性が普遍性を獲得してきたとも言えます。
 本作の素晴らしさを伝えるには私の語彙では全く足りないのですが、見終えたあとに「生きることは素晴らしい」という気持ちになれるという事実だけでも、本作の凄さがわかっていただけるのではないでしょうか。基本的に芸術とは「生への祝福」という行為だと私は考えます。讃えたり否定したりとアプローチは違えど、人間が生きる上での営みの本質を見つめることです。それを本作は成し遂げています。生きていることで祝福される、終幕のプライヤーのモノローグに胸を打たれたのは、今なお生きることが難しい時代ゆえにとも言えますし、そこが本作が持つ普遍性なのでしょう。

 と、偉そうに書いていますが、あまりにも凄すぎて完全に消化しきれていないところはありますし、独創的で理解していない部分も多いと思います。わからなかった固有名詞もありました。でもこういう作品を理解するためにサブテキストを見つけて調べるということも自分では楽しいです。素晴らしい作品はそれだけでも心を豊かにしてくれますが、その先もこうやって導いてくれるのですから。幸せなことです。

 俳優陣はみなさん本当に素晴らしい。このスケールを毎晩演じるという事実だけでも凄いのですが、もう表現力の引き出しの多さに圧倒されます。特にアンドリュー・ガーフィールドが演じたプライアーは圧巻で、この時代に災厄に巻き込まれることで預言者という立場になってしまう物語の流れがすんなりと理解できたのは、ガーフィールドが笑いと悲しみの絶妙のバランスの上で、プライアーを演じていたからだと思います。またロイ・コーンを演じたのがネイサン・レインだったことも大きな差違となりました。パチーノが演じたことで出てきたロイ・コーンの大物感というか重さは消えたのですが、逆にゲイでありながらそれを絶対に認めない欺瞞の権化のような男の滑稽さがにじみ出てきました。しかもレイン自身がゲイであり、彼自身もそこについては人生の中でいろいろな思いがあったはずです。そのあたりがロイ・コーンのセリフにダブってみえてきた部分もあって、レインならではの役作りとなっていました。いわゆるODSに分類される物をみるのは2回目だと思うのですが、やはり本物の演劇とは別物だと感じました。特に本作はステージという空間をかなり独創的な構成をしています。場面転換も多く、時には同時進行でわざと後ろに前場面を残したりもしていました。これはステージで目の当たりにすることが可能だったら・・・と感じました。しかし本公演を物理的にみることができない人にとっては有益な手段だとも実感しました。日本でA・ガーフィールドやN・レインが出演する舞台をみるなんて絶対に無理です。そんな素晴らしい俳優陣のステージに少しでも触れることができただけでも、喜ばしい限りです。

 数少ない本物の一級品であることは間違いありません。残念ながら今のところ、再映の機会はないようです。でももしこのステージに接するチャンスがあったら、ぜひ足を運んでください。

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2017年10月 8日 (日)

『デルス・ウザーラ』70ミリプリント版(フィルムセンター)

 昨日10月7日にフィルムセンター大ホールでの『デルス・ウザーラ』70ミリ上映をみてきました。素晴らしい経験でした。twitterでつぶやいたら予想外に賛同していただけた方が多くいらっしゃいました。そこで自分の備忘録と、なぜそこまで自分が『デルス・ウザーラ』に魅了されたのかを、ここにまとめておきたいと思います。かなり長い文ですが、おつきあいいただければと思います。

<黒澤作品との出会い>
 私が映画に興味を持ったのは小6から中1にかけてで、当時は名古屋在住でした。1970年代後半の名古屋には、東京や大阪と比較しても名画座という物がほんとんどありませんでした。ビデオというメディアもなかった時代ですから、旧作をみる機会は本当に限られていました。その中で初めての黒澤体験は、1982年に地上波テレビ放送でみた『七人の侍』で、3時間圧倒されたというのが実感でした。その後、その年がたまたま東宝創立50周年だったので、年末にかけて旧作の特集上映が東宝上映館(名古屋はエンゼル東宝)でありました。その中で『生きる』(同時上映は『駅STATION』でした)と『天国と地獄』をみることができました。やがて川崎に転居してからは首都圏の名画座をまわって黒澤作品を数多くみることができました。リアルタイムの黒澤作品は1985年の『乱』からです。オールドファンからはあまり評判はよくないですが、神の視点から俯瞰したように描く時代劇は当時の私にはかなり衝撃的で好きな作品です。

<『デルス・ウザーラ』との出会い>
 1980年代中頃からビデオソフトが出始めます。しかし黒澤作品の国内正規版はなかなか出てきませんでした。ちなみに『乱』までの黒澤作品の権利を持っていた会社は5社。大映(『静かなる決闘』『羅生門』)、松竹(『白痴』)、ポニーキャニオン(『乱』)、CBSソニー(『デルス・ウザーラ』)、そして残りが東宝なのですが、この中で一番早くに国内正規版がリリースされたのは、実は『デルス・ウザーラ』でした。この作品は配給が日本ヘラルドだったため、当初はCBSソニーがVHSをリリースしていました。しかも当時には珍しいフルフレームのノートリミング版で。初めてビデオでみた黒澤作品がこれでした。いつもの黒澤作品らしい激しさはありませんでした。でも画が写実的でありながら物語は寓話的な表現と、静けさの中にも厳しさと強さを内包しているその語り口は素晴らしいの一言で、心に残りました。最後の「鷲の歌」もぐっときました。当時の自分の鑑賞メモには「自然と人間をワイド画面で見つめる力業。」と記してあります。作品自体の力もそうですが、過去の黒澤作品のあと、『乱』をみてから『デルス』をみた順番もよかったのかもしれません。今から思えばこの作品は、カラーになった後期黒澤作品と、その前の作品との転換期にあった作品ですから、作風の変化を自然に受け入れられたのかもしれません。

<『デルス・ウザーラ』の受難>
 『デルス・ウザーラ』は前述のVHSリリース状況でわかるように、ソ連作品と言うことで他の作品とは扱いが違うことが多かったです。BS放送などでもかかることは他の黒澤作品と比較しても少なかったですし、特集上映でも、何本かで構成される時には上映されることが少なく、全作という時でも外されることが少なくなかったと記憶しています。ここ最近でいえば2010年の黒澤生誕100周年時のシャンテシネでの上映はありましたが、同企画の大阪上映時には上映されませんでした。
 またビデオリリースでも残念な扱いが続きます。初リリース時のCBSソニー版は字幕打ち込み状態での日本公開時のポジフィルムから起こされた素材。VHSは基本的にずっとこのままでした(最終的には東宝から再リリース)。一方DVDですが、まず東宝から他の黒澤作品と一緒にリリースされます。しかし他の黒澤旧作群が徹底的にブラッシュアップされているのに、『デルス』はほったらかし。画質はお世辞にもよいとは言えず、音声はモノラルのまま。とても残念でした。ただ同梱されていた約50ページに及ぶブックレットは本当に貴重です。ソローミン氏の文章もありますが、もっとも興味深かったのが、黒澤組でスクリプターとして、そして時にはきっともっと大きな役割を果たされていたであろう野上照代さんの「『デルス・ウザーラ』製作の現場」という文章でした。今から考えれば後述する「樹海の迷宮」にも掲載されていた製作日誌を抜粋した物だったかもしれません。
 しかし時には海外製作と言うことでの幸運もあります。この後、意外なところからも正規版が登場します。なんとロシア映画評議会(RUSCICO)が素材化したものを日本でロシア映画を多数リリースされているIVCが発売したのです。音声は初の5.1ch! 特典も日本初のものがある! もう狂喜乱舞ですぐ購入しました。しかし本編が2枚に分割され、音声も5.1chにはなっていたけれど勝手にSE類が付け足され(比較するとわかります)、画質についても悪くはないけれどそこまで劇的な変化とは思えず、失望感も大きい商品でした。その後、もう一度、2013年にオデッサエンタテインメントより3度目のDVDリリースがありましたが、世はすでにHD映像全盛の時代。ブルーレイを楽しみにしてこちらは購入しませんでした。しかし国内正規版はいまだにどこからもブルーレイは未リリース。東宝はDVDで出した他の旧作はちゃんと発売しているのに・・・。本当に残念です。

<「黒澤明 樹海の迷宮」の衝撃>
 2015年に『デルス・ウザーラ』をめぐる状況に大きな変化をもたらす書籍が登場します。小学館から出版された「黒澤明 樹海の迷宮」です。本書は大きく分けて3つの要素で構成されています。まず製作に至るまで、そして完成後を追った笹井隆男氏のルポ。さまざまな記録を検証した新事実の数々は驚きでした。そしてデルス・ウザーラの決定稿(これもびっくりだった)。でも何よりも読んだ私が衝撃を受けたのは野上照代さんの撮影日誌でした。『デルス・ウザーラ』の撮影が時期的にも物理的にも本当に大変だったというのは有名な話です。晩年黒澤監督がかぶってらっしゃった帽子は、この撮影期間中にかぶっていたものを作り直して使っていたそうです。遺作『まあだだよ』公開時のインタビュー時では、「あの時の撮影は大変だった。あの苦しみを耐えたのだから、他の事も何でもできる、そんな気持ちでかぶっている。」と発言しています。そんなすさまじい状況をずっとそばにいた野上さんがひたすら客観的に記録しています。もちろん映画監督という職業柄、かなり個性的な方であることは承知しています。実際、そんな現場の映画監督の典型的なあり方を知らないと、ただのわがままな人ととらえられても仕方がないほどの言動が連発です。しかしその先には、こうやってあの名作を完成させたという事実があります。『トラ・トラ・トラ』の挫折や自殺未遂騒動の直後に、初めての海外資本の製作現場(しかもロシアの想像を絶する地形&気象条件だった)で、日本人スタッフはわずか5人、あとは200人近いロシア人と2年間奮闘した60歳代での黒澤監督。読み終えて、なぜか映画のエンディングでも使われたあの「鷲の歌」が頭の中で流れてきたような気持ちと共に、胸いっぱいになってしまったことを覚えています。

<いくつもの幸運と情熱の結晶、素晴らしかった70ミリプリント上映>
 そして。10月7日、京橋のフィルムセンターに足を運びました。ものすごく久しぶりだったと思います。どのぐらい人が来るのか読めなかったのですが、絶対に見逃せない!という思いがあったので、朝8時過ぎには並びました。映画のために並ぶなんて久しぶりでちょっとワクワクしました(笑)。上映前のフィルムセンター主任研究員をされているとちぎあきらさんがご挨拶をされます。そこでも述べられていましたが、今回の上映プリントは松江陽一プロデューサーから寄贈されたものだそうです。(これを聞いた時にいよいよコンディションが心配になりました。) 
 いよいよ上映開始。開巻早々に日本ヘラルド映画のロゴがうつります。そう、黒澤作品が好きな人に言うまでもありませんが、今はなきヘラルドに黒澤作品は『デルス』と『乱』の2度救われています。私自身名古屋在住ということもありましたし、映画ドハマりの頃の自分には、東宝東和よりもヘラルドが重なるので、そこでまずぐっと来ました。注目の70ミリプリントの状態ですが、これがびっくりするぐらいコンディションがよかったです。1975年ロードショー上映時の70ミリプリントとは思えない美しさでした。猛吹雪の冬、緑が目にしみる夏、あの太陽と月が並ぶ場面も見事な色調でした。色むらもこれはもともとのソ連製フィルムの限界だったと思われますし、退色というよりは当時の色味がきちんと出ています。もちろんフィルム傷などはそれなりにありますが、フィルムやパッケージソフトも含めて少なくとも私が今まで経験した『デルス・ウザーラ』の中ではもっともよい状態で楽しめたプリントであることは間違いありません。
 さらに驚いたのがその音。撮影時に70ミリカメラなどを使わなくなり、さまざまなレンズもフィルムも優秀になった80年代。画質上のメリットは以前と比較すると小さくなっていましたが、実は70ミリプリント上映時のもう1つのメリットが音でした。35ミリプリントの基本が光学トラックだったのに対し、70ミリプリントは磁気トラックが基本。立体音響も6トラックまで(フロント5ch、リア1ch)まで可能です。耐久性はおちるのですが、SN比は段違いに優秀で、セパレーションのよい音を当時としては楽しめたのです(まあ、スペック的にはラジカセなどと同じレベルですが)。今回の『デルス・ウザーラ』の音はまさにその音でした。光学トラックほどぼやけておらず、デジタルサウンドほどの鮮やかすぎて時に耳障りになることもなく、耐久性が落ちてノイズ出まくりなどということもなかったのです。
 twitter上でも状態の良さをたくさんの人が驚いていました。というか1975年当時の70ミリプリントがどうなっていそうかをイメージできる、プリントの「常識」を知っている人の方が驚きは大きかったと思います。松江さんはどうやって保管されていたのか不思議でなりませんでした。おそらく上映機会の少なさ、黒澤監督作品というネームバリューやオスカー受賞という「重み」(プリント全巻の重量自体も重いですが)、何より松江プロデューザーをはじめとする制作側、東宝ではなくヘラルドだったという興行側、そしてフィルムセンターのスタッフさんをはじめとするアーカイブの関係者が熱意を持ってバトンを手渡すという幸運が重なったのだろうとしか言い様がありません。

<ただただ感激したこと>
 さて。もうひとつだけ話をさせてください。当日11時の回で私の整理券番号はかなり前の方でした。ホール中央は関係者席でしたが、まあ自分もそのあたりでみたかったのでその前の列に座りました。しばらくして後ろの関係者席に女性が座られました。ところがその声に驚きました。映画ファンにも馴染み深いその声は、あの野上照代さんだったのです。黒澤好きにもかけがえのない存在ですが、デルス好きにとってはもっと重要な存在である野上さん。次々と他の関係者が挨拶のために近くにいらっしゃいます。他の客席の方も何名か気づかれていたと思います。もちろん私も振り返ってご挨拶したかったのですが、プライベートでいらっしゃっている可能性もあることを考えると、ぐっと我慢しました。とちぎさんのあいさつで、観客に野上さんが紹介されました。場内から大きな拍手。私もすぐ振り返って大きく拍手をしました(本当は立ち上がりたかった!)。上映が終わって退場する時、どうしても一言申し上げたい気持ちを抑えられず、野上さんに「同席できて本当に光栄でした。ありがとうございました。」とだけ声をかけさせていただきました。野上さんからは「ありがとうございました。」と返していただきました。

<結びにかえて>
 DCP全盛の今、フィルム自体を扱えるところも減少し、ましてや70ミリプリントを上映できる場所は本当に少ないのですが、フィルムアーカイブであるフィルムセンターが、今回その上映設備を備えたことはまさに英断です。そして開館以来初の70ミリプリント上映作品として、私の大好きな『デルス・ウザーラ』を選んでいただいたことも、そのプリントがとてもよいコンディションで保管されていたことも、あの野上照代さんと前後の座席に座って『デルス・ウザーラ』をみられたことも。何という幸運でしょうか。映画好きとして幸せな時間だったとしか言葉が見つかりません。関係のあるすべての皆様に心から感謝の気持ちをお伝えしたいです。ありがとうございました。

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2016年7月29日 (金)

『シン・ゴジラ』

Singodzi ☆☆☆1/2 間違いなく2016年の今にふさわしい見事なゴジラ映画。
 今夏、というか今年一番の期待作であり、一番不安だった今作は、凄まじかったの一言でした。間違いなくここ数年の邦画の中でも最高の1本です。このあと完全にネタバレです。できるだけ事前に情報を入れない方がよいので、未見の方は読まないでください。

 評価は分かれるかもしれません。とにかく庵野さんが全てをさらけ出したような内容でよくもわるくもどこを切っても庵野総監督印で庵野秀明リミックスみたいな映画ですから。岡本喜八ちっくなスーパーの連打、異常にディテールが細かい対ゴジラの自衛隊の攻撃、役者陣の面構えだけ並べた手法、エヴァみたいなクライマックス、そしてきちんと街が描きこまれ、そこで怪獣を大暴れさせたこと(川崎市民としては多摩川防衛線の攻防は怖かった)。今までの庵野さんが好きだったもの、描きたかったものを大発散。そうすることを徹底してこだわった結果、ゴジラ映画の殻はきっちりと壊した。今までもゴジラシリーズはファンから多くの期待をされました。その中に「そろそろ大人の鑑賞に堪えるもの」があったと思います。そういう意味で北村監督や金子監督ですら打ち破れなかったものを庵野総監督はやりとげたのですから。ここはちゃんと評価すべきです。
 それでいてちゃんとゴジラ、というか特撮映画でした。あの形態の変化はいいアイディアだったし、得体の知れない生き物というイメージはよく出ていた。放射能の問題からも逃げなかったし、ではどうやったら倒せるかも非現実的にしなかった。あの電車を使ったアイディアは大好きです。
 そして何より邦画のダメ要素になりがちな部分を抑えて、かなり限定された状況での人間ドラマにしたのが成功した要因だと思います。具体的に言えば庶民視線をすぱっと切ったのがよかった。お手本は喜八監督の『日本のいちばん長い日』だったのでしょうか。これに庶民視線や恋愛が絡んでたらリメイク版の『日本沈没』(樋口さん!)になるのです。また演技陣に芝居どころを設けなかったのは英断ですね。誰にも見栄を切らせなかった(例外は石原さとみのみで唯一の目立つ欠点)。またその中で物語の核になったのが組織論。朝日新聞で柳下さんが皮肉っていたけれど(あの批評はひどいと思いました。あれは批評じゃないです。)、あの状況はポスト3.11の日本だからこそ説得力があって、プロが自分の責任を果たす中で、ではリーダーが果たすべき役割が幾つも提示されていたのは興味深かったです。
 間違いなく2016年の今にふさわしい見事なゴジラ映画。やりたいことをきちんとやって、それで魅せる内容にしたのは凄い。私は断然支持したいです。
 最後に余談ですが音響のこと。この作品が3.1ch(つまりサラウンドchがなしということですね)で処理されていることが話題になっていますが、私は肯定派です。やっぱり映画音響は前方定位が基本だし、あれだけ台詞が多い作品で不必要に後方chに回していたら違和感が強かったかもしれません。映画音響は音源の定位(基本はスクリーン上)、複数の要素(台詞・劇判や効果音)、自然な音場の三要素のバランスが大事で、非日常的な爆音ばかり評価してはいけません。またあれだけ劇伴や効果音でモノラル音源を露骨に入れるのも庵野監督らしいと思いました。
(TジョイPRINCE品川 シアター11にて)

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2016年4月26日 (火)

『レヴェナント 蘇えりし者』

Revenant ☆☆☆ 技術的な力業がやや鼻につく
 力作であることは間違いないです。ただしこれが傑作かとなると、個人的にはかなり微妙かもしれません。
 いや、それでもまず認めましょう。ディカプリオは大熱演です。これでオスカーもらえなかったら・・・という町山さんの話に納得。文字通りの熱演です。そしてルベツキの撮影も凄まじい。もうマイッタというぐらい、どうやって撮影したの&なんて美しいののオンパレード。ただこれが作品の力や魅力になるのかというと必ずしもそうではない気がするのです。
 まず内容的に独創性をあまり感じなかったこと。物語は復讐譚ですし、自然光撮影だってパイオニアとは言えない部分があって、描かれた世界に既視感もありました。まるでリアルなホドロフスキー『エル・トポ』? 真の『ダイ・ハード』?(汗) いえいえ、一番近く感じた作品は、やはりテレンス・マリックの『ニュー・ワールド』でしょうか。なにしろ撮影がルベツキ、プロダクションデザインがジャック・フィスクと、視覚的な要素を担当しているキーパーソンが同一人物なのですから。けれども本作はその技術が物語と噛み合っていません。確かに技術的には凄かった。物語も興味深い。ではなぜ本作はこれほどまでに「ヨリ」の映像ばかり? そしてローアングル? 前作『バードマン』はあの世界を描くにはあれしか方法がなかった気がするぐらい物語を支える技術に説得力があった。では本作は? きっちりと3つの物語を絡め合わせた点が魅力的だった『アモーレス・ペレス』『21グラム』などのイニャリトゥの初期作品と比較して、あまりにも強引すぎて白けさせた『バベル』のように、本作は技術的な力業がやや鼻につく作品でした。それゆえにディカプリオが本来背負っている業のようなものがにじみでてこないところに、宗教的なバックグラウンドの重みがなくなってしまっています。
 力作であり見応えはあります。でも。私は人にはすすめないかもしれません。何かの愉しみや感動を求めているのであれば、かなりの勇気が必要な独特の味わいの作品です。そう、まるで劇中に出てくるバッファローの生肉のように。
(109シネマズ二子玉川 シアター7にて)

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