『東京干潟』
☆☆☆ 重なりからみえてくるものの重み
待望の村上監督の新作は、実に見応えのある力作でした。しかし私が事前にイメージしていた穏やかなものだったかいうと、そうではなく、むしろいろんなものが小さなトゲのように突き刺してくる鋭さも持ち合わせている作品でした。
このしじみのおじいさんの行動は昨今のポリコレ的な発想でいけば3秒でツッコみどころ満載かもしれません。住居も、しじみ取りも、ネコの保護も。台風で水浸しになるなら引っ越せばいい、という自己責任論も容易に出てくることでしょう。でもおじいさんの行動が正しいかどうか、意味があるかどうか。そんな物差しではなく、そこに命があることを受け止めることで始まる営みを描くことで、その重みをこの映画は見つめています。
村上監督の過去作『流 ながれ』も、自分の興味で始めた行動が、当人も思ってないような意義に変質していく過程を誠実にとらえていました。本作でもしじみのおじいさん当人は、自分の生き方にはそれほどのものはないと思っているのですが、少なくとも凡百のよくある生き方でもなく、さらに本当に絶句するような過去もあるという人物が中心となっています。そしてこれも『流 ながれ』ですでに萌芽となって現れていましたが、村上監督はそれを誇張しません。悲愴感も不幸の押しつけも感動的な空気もありません。これは大きな特徴だと思います。これはインタビューをする村上監督の声が、一般的なドキュメンタリーよりも多めに入っていることも関係していて、孤立感から来る寂しさが希薄だったのは、監督との関係性を見せていたからだと思いました。
『流 ながれ』とは大きく違っていたことが2つありました。ひとつめは撮影です。この映画は監督自身がカメラを回しています。フィックスでどっしりと構えた落ち着きは同じですが、今回は実に印象的な構図が多くとらえられていました。背景に映り込むのは羽田や川崎市の臨港地域ですが、この背景に大きな意味があります。川崎市は今でこそ川崎駅前や武蔵小杉の大型商業施設の成功もあって、住みたい街にランクインするところもあります。しかし南北に長いこの市は南部と北部ではまったく街の性格が違い、特に南部は再開発が進んで大型集合住宅が増えているとはいえ、埋め立て地に工業地帯がひろがり、在日の方や外国籍の方、低所得者層も数多く住んでいます。路上生活者の姿も珍しくなく、時にそういった犯罪(多摩川河川敷での少年犯罪もこのあたりで、記憶に新しいですね)のニュースが世間を賑わせることがあります。また2016年に公開され、観た人の気持ちをどん底に叩き落とした平山夢明原作の映画『無垢の祈り』のロケ地がこのあたりの地域で、もう私としては、その物語にあまりにぴったりな空気だという事実が逆に辛くなったという、そんな独特の雰囲気があります。でも。表には出てこないかもしれないけれど、ここは私たちの繁栄を影で支えてきた人たちの町だともいえます。飛行場や発電所、工場のように住宅地には邪魔な物。けれども我々には必要不可欠な物が集められている。そこがおじさんのしじみ漁の背後に何度もうつってくる。そんな重なり方が雄弁に『東京干潟』という映画で村上監督が紡ぎたい物語を語っています。またナイトシーンの見えない暗がりをしっかりと画で表現した点も効果的でした。
もう1つは音声。背景の環境音がこれまた実に印象的です。ただ集音マイクでそのまま拾った感じではなく、きちんと整音されて、聴かせたい部分に音がフォーカスされているので、これが映像と重なった時に、その時の映像の印象を増幅させています。セミの鳴き声、飛行機、ヘリコプターや工事の音。あとで監督のインタビューを読むと、やはり神経を使われていたことがわかったのですが、干潟やおじいさんの家の空気感にリアリティがあったのは、観客が村上監督と共におじいさんと一緒にその場にいた状況のように思わせる部分で、これまた大きな意味があったと思います。
さて私が前述したトゲはいったいどこにあるのかなのですが。この作品は「重なり」で表現されていることを観客が自分の思いを巡らせる映画だと言えます。映像や音声での演出が示すように、多くの要素が複合的なメタファーとなっているのです。したがって、トゲは表出しているのではありません。まるでしじみ漁を手の感覚を使いながら行うように、村上監督の演出によって、観客がその演出意図を受け止めるという中で、こういうことなのかな、という気づきが隠れているように思うのです。
例えばネコなのですが、一番幸せな状況というのは、あのネコたちがいないことなのです。なぜならあそこにいるネコたちは捨てられてしまったネコなのですから。またネコはとても勝手気ままな存在なので、ひょっとするとおじいさんのことをネコはえさの手段程度にしか考えていない現実もあるかもしれません。けれどお互いが支えになっている現実は間違いなくある。そしてその現実が日常をつくっていて、その日常は私たちからはあの多摩川の景色の中に表面的には隠れているようにみえています。おじいさんは片眼の視力はほとんどありません。けれどその事実は遠方から接している時には気がつきません。そもそもその理由すら気にかけない。でもクローズアップと俯瞰が映画の中で「重なり」を繰り返していくうちに、私たちは気になっていく。橋脚の工事をみておじいさんは工事の過程をすらすらと説明する。おじいさんの過去と結びつくだけでなく、おじいさんにとってはそれがもたらす未来をみている。おじいさんの雇っていた人たちと保護したネコ。おじいさんが作ってきた建造物としじみ。おじいさんの小屋と集合住宅。長い時間をかけて生まれた干潟と一瞬で破壊する工事現場。多くの「重なり」が、観客の中におじいさんへの「へえ!」と「すごいなあ」と「大丈夫かなあ」という感情を複合的に呼び覚ますのです。クライマックスの台風部分で(非現実的な)祭り囃子が響くことが強く印象に残ります。村上監督がこの状況をポジティブに見つめ、おじいさんが困難に負けずにこれからも生きていてくれますようにという願いのように祭り囃子が聞こえてきます。
残念だったのが構成の部分で、特にテロップが多用されはじめた後半部分で作品のリズムが変わってしまった気がしました。こういう作品で緩急をつけるのは難しいと思うのですが、映画としてみた時に、河口部での工事がはじまったあたりから、駆け足な感じになってしまったのです。全体のバランスとしてみた場合、紹介としての前半、おじいさんの人生の中間、そして工事が始まった後半部分で、後半部分の印象が他の部分より希薄になってしまった気がしました。あそこでもう一度、それでも変わらぬおじいさんの日常でもよし、変わり始めた村上監督の関係でもよし、じっくりと流れるようなテンポがあった方が台風のところはより効果的だった気がします。
私たちは現実の中で見えていても気がつかない物がたくさんあります。この作品はそこにスポットを当てながら、「重なり」からみえる重みも伝えています。そして私たちに違う物の見方を示唆して、ちょっと立ち止まる時間を与えてくれます。シネコンで公開される映画群に紛れ込んで気づかずにいるのはもったいない、小品ですが豊かな作品です。おじいさん、ネコ、干潟、どこが入り口でも構いません。けれどみおわったら、きっと次にみる景色への印象は変わっているはずです。(ポレポレ東中野)
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