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2019年8月28日 (水)

『蟹の惑星』

 ☆☆☆ 蟹がスゴイ。干潟は浅いが深く、人生も深い。
0005 もうこの題名でつかみはOKですよね。だって『蟹の惑星』ですよ! 淀川さんだったら「さあ、かにのわくせい、かに、かに、このかに、なんでしょうねぇ・・・」なんて名調子が続くかも知れません(笑)。題名とチラシをみて、みたい!となっていた1本は、視覚的なおもしろさに充ちた秀逸な作品となっていました。でもそれだけではなく、『東京干潟』と共にみることで人間への深い洞察力を備えた豊かな作品でもありました。

 すごかったのはやはり蟹の映像です。単純にすごかった! 花、虫、動物、それぞれに面白さはあると思うのですが、蟹が被写体としてとにかく魅力的。美しさ、かわいらしさ、グロテスクさが渾然一体となって、まるで『スターシップ・トゥルーパーズ』のバグたちみたいで、動く動く。そしてそれをきちっと魅力的にとらえています。小さな物を大きく写すだけでも映像はぐっとオモシロくなりますが、とにかく今までみたことがないものばかりでした。よくぞ、これだけ映像に収められましたね!と驚くばかりです。予算規模的に必要最低限のセットアップの中で、レンズなどの機材のセレクトや、撮影方法など技術的な裏話は尽きることがないのでは、と思うほどすごかったです、間違いなく労作です。

 さて。本作で意見が分かれるかも、と思ったのは蟹の観察をしている吉田さんの存在です。この映画に関しては吉田さんの比重のかけ方が難しかったと思います。吉田さんの解説が加わることでわかりやすく、観客の知的好奇心を刺激するという点も事実ですから、入るのはおかしくない。でも蟹の映像の方が圧倒的に魅力的なので、観客の立場からすると、吉田さんより蟹がみたい(汗)。ご自宅の様子とお孫さんのエピソードは不要と感じる人はいると思います。ただ、もし『蟹の惑星』が吉田さんをただの解説者にしてしまったら、これは干潟の映画ではなく、蟹の記録映画になります(それはそれで魅力的な気はしますが(汗))。ではなぜそうしなかったのでしょうか。

 やはり本作は『東京干潟』と一緒にとらえなくてはいけないのではないか、と思いました。というのも『東京干潟』をみた後で、私の中の疑問として浮かんでいたある点が、『蟹の惑星』をみてあっさりと氷解したのです。『蟹の惑星』が驚くほど『東京干潟』と表裏一体となっていたことで、監督の狙いがくっきりと浮かび上がってきました。端的にいってしまえば、しじみが蟹であり、吉田さんがしじみのおじいさんなわけですが、ただ比重の掛け方が違う。『東京干潟』の主役はおじいさん、『蟹の惑星』は蟹。じつはこの比重の違いもカギになっています。

 芸術表現の中には、いくつかを組み合わせてとらえることで、意味が変わってくるものがよくあります。映画の場合にも、もともと関連があったり、結果的に関連することになったり。有名なところではイーストウッドの硫黄島2部作がありますが、あれは同じ時刻の同じ場所を視点を変えて描くというアプローチで硫黄島での激戦を描き、それでいて実は描こうとしている戦争の虚しさは共通していて、それが1本で描くよりも、よりくっきりと浮かび上がっていました。村上監督はさまざまな生き物が共存する干潟という不思議な不思議な場所をとらえるにあたって、何よりその多面性をとらえたかったに違いない。監督は『東京干潟』と『蟹の惑星』がもともとは1つの作品で構想していたと語っていらっしゃったのですが、でもその多面性をとらえるには1本の作品ではない形の方がよいと考えたのだと思います。(最初はオムニバスっぽいものをというのも頷けました)。

 疑問だったのは、自然を題材にしたドキュメントにありがちな、干潟保護という観点での自然保護を声高に訴えるようなメッセージ性が『東京干潟』には希薄だったことです。というのも明らかに干潟を危機にさらしているのは人間ですから(汗)、そちらに怒りの矛先が向いても仕方がない題材です。でも村上監督の狙いはそこではないのかな、までは思っていました。しかし今ひとつ、おじいさんにフォーカスした構成に監督の狙いまでは『東京干潟』だけでは私にはみえてきませんでした。
 両作をみおえて、自然と人間とどちらにフォーカスしたかが大きな違いなのですが、逆に共通点はやはり2人のおじいさんです。別の作品で並行して描くことで、監督が作品の中で人間をどうみつめているかをはっきりと浮かび上がらせています。それは経済的なものとか能力の優劣とかではなく、その人がどんな生き方をしているか、という点です。2人のおじいさんが抱える現実の違いはやはり大きく感じます。もし1本の作品でやっていたら、どうしても比較が生じるでしょう。でも2作にわけて作品内で描く比重のかけ方も変えたことで、観客側の受け取り方が変わるのです。キャットフードや道具が並ぶ小屋と、蟹の資料がずらりと並ぶ部屋が同じに見えた。孫の話と猫の話が重なった。どちらの生き方がいいとかじゃなくて、どちらのおじいさんも「元気かなあ」なんて思ってしまうのです。
 人間から虐げられたネコたちや、小さな蟹たちの姿にフォーカスしながら、干潟を通して干潟にいる2人のおじいさんと知り合うことができた。その姿を見つめながら、できれば、しじみもネコも蟹も、もちろんあの2人のおじいさんたちも干潟とともにこれからも生きていけますように、という祈りにも似た監督の願いがくっきりと浮かび上がってきます(『東京干潟』のクライマックスでの祭り囃子は、『蟹の惑星』をみていないと全く受け取る意味が違うと思います)。そしてそれをみた私たち観客も、どちらのおじいさんのような人生にもなる可能性があるけれど、きっと誰とも違う人生をこれからも歩んでいく。そんなたくさんの人たちがまるで干潟のように共存できるといいなあ、と願うのです。このような様々に多重化した面白さが『東京干潟』と『蟹の惑星』両作で生み出される真骨頂なのです。

 実に豊かな時間を過ごすことができた、みてよかったと思える2作品でした。これからも上映の予定があるそうです。その時には紹介したいと思いますので、ぜひ機会をみつけてご覧いただければと思います。(ポレポレ東中野)

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