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2018年7月18日 (水)

『1999年の夏休み』と私

 この文章は『1999年の夏休み』について書いた物だが、まず先にお断りしておこう。この文章はきっと矛盾だらけで、読んでもすっきりとしないし、私が何を伝えたいのかが、はっきりと見えてこないと思う。理路整然と話すことを旨とする身であるが、こればかりはどうしようもない。だからきっとうまくいかないこの試みが何を目的にしているか最初に意図だけは伝えたい。

 この作品をなぜ自分が好きなのかを公開後30年たっての自分なりの分析を試みたいのだ。結論はわかりきっている気がするけれど。

 私がこの映画をみたのはまずビデオでだった。高3、一浪、大学1年と、人生の中で一番映画をみて、音楽を聴いて、本を読んでいた頃だった。はまった。どこがピタッとはまったとか、何かに心を動かされたとか、そんなわかりやすい説明はできなかった。ただ何度も繰り返し再生する1本となった。やがて名画座での上映も経験して、心から好きな大切な映画になった。物語のトーンも好きだ。私は海外のSF小説から読書に入った人なので、近未来とか、輪廻転生とか、タイムトラベルとかの設定に惹かれる。

 興味の入り口は脚本の岸田理生さんだった。私が高校生の時に衝撃を受けたガルシア・マルケスの「百年の孤独」を題材にした傑作『さらば箱舟』の脚本家の方だ。寺山修司も凄いとは思うのだが、あの小説をあそこまで独創的に料理したのは岸田理生さんの力だと信じている。その人が、私の大好きな「11人いる!」の作者である萩尾望都さんの原作を翻案するという。「トーマの心臓」は当時未読だったが、「11人いる!」はSF物大好き人間としてはその面白さにニヤニヤしながら読んでいた。ただ、あとで読んだ「トーマの心臓」にはホモセクシュアルの香りも漂わせながら、実は宗教的なバックボーンまで感じられたし、そしてそもそもがフランス映画『悲しみの天使』がモチーフになっていることもわかったが、この2つにはそれほど感銘は受けなかった。
 だからあらためて思うのは、岸田理生と萩尾望都という組みあわせが『1999年の夏休み』には夢幻的でありながら独特のリアリティをもたらしたと思っている。閉鎖的な空間の中で展開される「生まれ変わり」と「少年たちの交流の物語」に、そもそもが閉鎖的な空間であるステージ表現の構成力がもたらされたのだから、鬼に金棒といってよい。加えて本作のセリフは実に詩的で、魅力的であるのも、岸田理生さんの貢献は大きかったのだと思う。

 金子修介監督は当時にっかつ出身の俊英として知られる新人だった。後追いでみたデビュー作『宇能鴻一郎の濡れて打つ』は「エースをねらえ!」をおちょくった大爆笑ものの作品で、コミカルな作風の人だと多分ほとんどの人(私も)が思い込んでいた。このあと金子監督は、驚くほど多様なジャンルで幅広い内容の作品を監督し続けている。怪獣もホラーもアクションもコミック原作もある。しかし後からフィルモグラフィを眺めると、やっぱりこの作品は金子監督の作品群からは突出して異色であると考える。
 監督作品を並べてみると、きっちりとした演出構成で組み立てる職人的な腕を持っている方だ。事実『あずみ2』や『学校の階段3』はシリーズ物の前作から監督を引き継いでいるし、『ガメラ』も『就職戦線異状なし』も金子監督ならば、あの脚本を何度映画化しても同じ水準の作品に完成させられるように思える(別な意味で『卒業旅行』は無理だと思いますが)。また映画的表現としてケレン味の利いた作品が多く、ジャンル系も得意にしている。そのせいか『毎日が夏休み』『デスノート』『神の左手悪魔の右手』といったコミック原作の映像化もとても多い。そんな演出の向こうに見え隠れするのは、コミカルでありながら観客を引きよせるエモーショナルなサジ加減と、肉体が未成熟であるが故の独特なエロティシズムである。コミックが原作の場合は特にケレン味全開となっている傾向が強い。また本作と同様に4人の少女が揃った『少女は異世界で戦った』に至っては、いかにも金子監督らしい趣向はあるものの、『1999年の夏休み』と同じ匂いはしない。演出の腕できちんとみせる。また金子監督作品には一般的に理解される性的な「いやらしさ」がほとんどない。ロマンポルノ時代の作品ですらいやらしくなく、カラッとしたタッチである。むしろ『ガメラ3 邪神覚醒』の前田愛がイリスに取り込まれるシーンのように、フェティッシュな描写に官能を感じさせるものが潜んでいる。本作で言えば、寄宿舎での生活であり、あの男子校とは思えない制服デザインである。何より男の子を女の子に演じさせて、さらに声を吹き替えるという発想が端的であろう。
 それでもやはり本作は他とは違う。全編がシリアスだし、誇張された表現も少ない。でも間違いなく金子監督が作りたかったものがぎゅっと濃縮された世界であることは表出した気がする。何か人知が及ばないような力が加わって、同じようには作ることのできない作品となっているとしか言い様がない。

 撮影の高間賢治さんは、実は映画よりも先に「マスターズ・オブ・ライト」の共同翻訳者として名前を覚えていた。だからなのかもしれないが、オープニングのナイトシーンの画作りからして、いわゆる邦画的なセンスとは違うように感じられた。パンフレットやチラシなどの宣伝材料に掲載されているスチル写真とのトーンの違いでもよくわかる。悠がランプを手にして歩くシーン。後に別のインタビューで、これまた私の大好きなキューブリックの『バリー・リンドン』などで知られるジョン・オルコットのライティングを参考にしていると語っていた。ノスタルジックにも感じられるレトロフューチャーな世界が高間賢治さんの手で画として紡がれていく。

 主演4名のうち、あらかじめ知っていたのは中野みゆきさんだけだった。でも魅せられてしまったのは宮島依里さんだった(しかも、3役のうちの1つは無名時代の高山みなみさんの声の表現力が加わるのであるから、もはや無敵である)。オープニングでは何とも思わなかったのに、エンディングの頃にはもう愛おしくて仕方がなかった。ステキな笑顔で。でもどこか悲しい陰りがあって。何と表情の豊かな女優さんなのだろう! 何しろ当時夜型だった私が「ドーナツ6」のために早起きしたし、「3年B組金八先生」のニンジン嫌い娘や「リトルボーイ・リトルガール」の戦時中の少女(歌声まで聴かせてくれる)も印象的だった。魅力的な女優さんであり、声優さんとしての活躍ぶりは本当に嬉しいのだが、結局私の中では『1999年の夏休み』の彼女の魅力を超える役はなかったように思える。そのぐらいあの存在感は凄かった。そしてそれだけで私は一生宮島依里ファンでいようと思っている。

 そして本作に完璧な魔法をかけたのは中村由利子さんの音楽である。これが後で既成曲の使用と聴いたときには本当に信じられなかった。それぐらい完璧だった。どの曲も好きだけれどあのエンディングの「ウェイティング・フォー・ブロッサムズ」が映画に与えたトーンは素晴らしい。まだ目覚めたくないという後ろ髪を引かれるような気持ちと、新しい一日の始まりが待ち遠しくて仕方がない、そんな相反する感情がおだやかな空気の中でまどろみながら漂う、そんな朝のようなエンディング。この曲のおかげで、この作品はもう一度みたいという気持ちにされるように思う。あのシーンだけをみたい!じゃなくて、全編に身を委ねたいという感情がふっと自分の中にあることに気がつく。中村さんの音楽が、最後の仕上げとして、この映画に「特別」な何かを与えたのだ。
 余談だが、大学1年の時に私はある女性に恋に落ちた。その女性との距離を一気に縮めるキッカケとなったのは中村由利子さんである。何の気なしに向こうが最近聴いている音楽として中村由利子さんの名前が出たのである。彼女は本作で使われた「風の鏡」が大好きだったようで、私は「いいよね」と答えたら、「知ってるの?」と驚かれた。そもそも周囲に知っている人があまりいなかった上に、普段UKロックばかり聴いている私が知っていたことが意外だったらしい。私はセカンドアルバムの「時の花束」も大好きだったが、彼女はこれをまだ聴いたことがなくて「貸して!」となってすっかり盛り上がった次第。もちろん彼女に『1999年の夏休み』をみせた。そして彼女も本作をすごく気に入った。その後、せっかく恋人同士の関係になれたのに残念ながら自分が至らず、結果的に私は別の女性と結婚した。でも自分が少しだけ常識的な人間性を身につけられたのは彼女との交際がきっかけだったし、今でも大切な思い出だ。

 そう、この余談が象徴しているように、本作は私には極めてパーソナルなものなのだと思う。それどころか、傲慢な言い方をすれば、私の「好き」なものや「好き」な要素が妙にブレンドされて、才能のある「好き」な方々によって映画になった作品だと言える。まるで私のためにオーダーメイドされたかのように、である。そんな作品と出会って、間違いなく私は恋に落ちたかのように夢中になったといえる。だからなんで好きなの?と理由を聞かれても答えられない。ただ好きになったのだから。好きになることに理由はない。
 だから他の人から好きな映画としてあげられると、嬉しいと同時に、ちょっとだけ嫉妬心に近い感覚もある。私が何かのマイベストで本作をあげることはないかもしれない(実際あげた記憶があまりない)。オススメの作品と尋ねられても本作をあげることはない。でも。信頼できる大切な誰かに、しつこくしつこく尋ねられたら、「実はね・・・」とそっと心の奥から取り出した中に、本作は必ず入っている。

 そんな作品が公開から30年たった2018年の今年に、デジタルリマスター版として復活する。
https://www.facebook.com/30th1999/

 この出来事がどれだけ私にとって驚きだったか分かってもらえると思う。熱狂的なファンはいるけれど世間一般の知名度は高いとは言えず、インディペンデント作品で大ヒットしたとも言えない。そんな作品がまた映画館で上映されて、私の前に姿を現そうとしている。まるでタイムトラベラーのようにロードショー公開時そのままの姿で、時を超えて。これだけの事実で私は胸がいっぱいになってしまうのだ。

「私がまだ何も知らなかったあの年の夏休み。世界がそれまでとは全く違って見えるようになった。いや、実は私自身が卵の殻を破って変貌したのであろう。今でもハッキリと思い出す事ができる。あの年の夏休み。まるでまだ昨日のことのような気がしてならない。」(作品冒頭のモノローグ)

 私は約30年前に『1999年の夏休み』と出会って、本作が好きになった。本作がこうやって再上映されることは嬉しいのだが、自分が本作を好きでいる気持ちが変わったらどうしようと、ふと思うことがある。世の中は儚くて、永遠のものは存在しない。それでも本作の魅力に身を委ねるかのように、私は日本映画専門チャンネルで過去にオンエアされたHD映像を自分のシアタールームで再生する。そして「ウェイティング・フォー・ブロッサムズ」の流れるエンディングと共に、現実世界に戻っていく。そんなことを30年近くも繰り返している。悠が何度も何度も現れるように。

それでいいのだと思っている。

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