« BD『レジェンド 光と闇の伝説』 | トップページ | 『キック・アス』 »

2013年8月12日 (月)

『風立ちぬ』(2013)

Kazeta ☆ 自己本位な表現がさらけ出す、見かけ倒しの老醜。
 『ハウルの動く城』『崖の上のポニョ』と連続で最低評価をつけましたが、まさか3作連続でこうなるとは思いませんでした。はっきり言います。この作品、大嫌いです。なぜならここには宮崎駿の開き直りしか感じられないからです。
 まずこの作品はゼロ戦の設計者として知られる堀越二郎という実際の人物に、作家堀辰雄の物語をからめたフィクションです。つまりこの作劇には意図があります。するとそれはなぜかということになりますが、これは宮崎駿の理想なのでしょう。『崖の上のポニョ』では幼女と老女に対しての興味を示しましたが、『風立ちぬ』では理想の恋についてを語っているのかもしれません。幼女(設定では13歳ぐらいですよ)が恋の対象になっているのは、すでに『千と千尋の神隠し』のカオナシで描いていますが、今回は臆面もなく、こうなるとよいという展開を描いているとしか思えません。なぜなら本編にもう一度、親の帰りが遅い子どもにシベリアを渡すエピソードが出てきますが、それとて相手は女の子なのです。恋の展開に恋愛の苦しみとかなんて全然出てきません。ままごとレベルの行為です。
 もうひとつはこの映画に何度も出てくる技術という憧れを描いていますが、その過程において人間の重みが不在になることです。何度も何度も美しいという言葉が出てきますが、美しさを追い求めるということは、ここではただ単に技術過信にしか思えない。パイロットのことなんて誰も考えてない。戦争についての葛藤なんてこれっぽちも出てこない。実際、ゼロ戦は米軍機と比較すると、その装甲の弱さが指摘されることがあります。そういう設計ポリシーなわけです。彼のフィルモグラフィの中に『紅の豚』がありました。私はそれほどこの作品は評価していませんが、飛行機についての趣味丸出しにしている点で、本作と通じる部分は少なからずあります。ただあちらが技術屋(パイロット)は所詮技術屋で、苦い現実に直面している姿をきちんとおさえているのに対し、こちらは二郎のイノセンスを持ち上げています。この点は大いに異を唱えたい部分ですし、そこは必ずしもポジティブな面だけではないからです。なぜなら彼が作ったのは戦闘機です。もし外国の技術者の話だったら、私たちはそれを素直に受け取ることができたでしょうか。ましてやそれがオッペンハイマーのような立場だったら?
 確かにこの二郎という男に宮崎駿はだぶりますし、クリエイターとしての彼の葛藤は大いに感じる部分はあります。実際評価している人の声は、巨匠と呼ばれるまでになった宮崎駿が、ここまで自らをさらけ出した事への称賛だと思います。またこの作品でもさまざまな実験精神あふれる試みを実施していますが、庵野秀明氏の起用もサウンドトラックをモノラルにしたことも見事だと思います。しかしそれは所詮作品全体のディテールの問題でしかなく、本質的な部分で、彼の作品にはもはや観客は不在です。でも。もしそれが本音だとするならば。『カリオストロ』『ナウシカ』『ラピュタ』などのかつての宮崎作品のように、私たちが歓喜の声をあげられる作品は2度と生まれないということです。私が敬愛する島秀雄という鉄道技術者がいます。新幹線やD51の生みの親として知られる彼にとって、最優先事項は堅実と安全でした。これは設計者のポリシーであり、まず乗客のことを考えていたからです。宮崎駿はそうではない。彼は自分の美しさしか求めないのですから。
 この作品は宮崎駿が再びむき出しで迫ってきます。でもそれはかつて映画界で巨匠と呼ばれた人々がしたように、自分の「美」を人々に押しつけただけです。しかもこの作品には数少ない名作が持つ絶対的な「美」は持ち得ず、ただ単に老醜がさらされているだけとしか思えませんでした。
(チネチッタ・チネ8にて)

|

« BD『レジェンド 光と闇の伝説』 | トップページ | 『キック・アス』 »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 『風立ちぬ』(2013):

« BD『レジェンド 光と闇の伝説』 | トップページ | 『キック・アス』 »