『ジェシー・ジェームズの暗殺』
☆☆ 映像で語るのか、演技でみせるのか。
たとえばワイアット・アープの物語、またビリー・ザ・キッドの物語のようにアメリカ人にはなじみのある無法者ジェシー・ジェームズの物語は、自分に馴染みがないこともあってか、もうひとつ物語の中に入り込むことができませんでした。ただその撮影術には目を見張るものがありました。ロジャー・ディーキンズがつくりあげた西部の世界は、その荒涼たる景色と、時折織り込まれるタブローのように美しい場面とで絵巻物のような美しさをたたえています。しかしそれが物語にうまくとけこんでこないのです。ここはキューブリックの『バリー・リンドン』と似ているのですが、あの作品と決定的に違うのは、キューブリックはとことん精緻な絵画のように画像設計をとらえ、物語を表面的に語ることに徹したことで成功したのに対して、この作品は演技で成立させるドラマを完全に否定しなかった点で中途半端になってしまったのではないでしょうか。その証拠がキャスティングでブラッド・ピットやサム・シェパードが自分の立ち位置(まるでただの人形のような存在感)を理解しているのに対して、ケイシー・アフレックはその部分を理解していません。ジェシーとの葛藤、最後の兄弟の葛藤を柱にしたいのであれば、今回の映像設計と物語の紡ぎ方には無理があります。何度もみてみたい映像世界であるだけにここは残念です。
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