『主人公は僕だった』
☆☆☆1/2 喜劇は悲劇よりも雄弁になれる証。
ウィル・フェレルの主演だときいてかなり軽いノリのコメディを想像していたのですが、意外や意外、これはとても深い味わいのある知的なコメディでした。ただしこれをそのように理解するにはいくつかの選択肢があり、その結果によってはこの作品の評価はがらっと変わってきます。
まずこの映画ではなぜ主人公に作家の声が聞こえたのかについては説明がありません。これが気になって仕方がない人がいるかもしれません。ただこの映画ではその理由は重要ではなく、むしろ現実の人生は作家が考えるよりはるかに波乱にみちていると考えるべきでしょう。つまり作家が懸命に考えたことが偶然現実と一致したことが舞台装置としては重要だったわけです。さてもうひとつ。ウィル・フェレル演じる主人公と、エマ・トンプソン演じる作家とどちらに感情移入したかによります。で、これが前者ですととてもモヤモヤしてしまうと思います。ところが後者の視点で物語をみつめると、これほど奇妙な物語はないのです。作家のタイプひとつで運命が変わる人間がいるというのは、クリエイターなら誰もが経験するモラルの問題で、笑い事ではすまされないところがあります(このあたりの不謹慎すれすれの部分は、その前の病院や橋の場面などいくつかの暗示的な場面が象徴しています)。作家の世捨て人のような生活といい、常に3人称で語られる物語といい、この物語の主人公は実は作家なのだと思います。世の中、喜劇と悲劇が同居していて、それをどうとらえるかは本人次第、悲劇が名作として評価を得やすいのに反して、喜劇は「まあまあ」なレベルで評価を済まされてしまうことが多い中、ウィル・フェレル演じる男を喜劇的にとらえることができるようになるまでの物語ではないのでしょうか。それが原題の「事実は小説より奇なり」"Stranger than fiction"になって表れているように感じました。ウィル・フェレルは抑えた演技がとぼけた味わいになり、素晴らしかったです。またマギー・ギレンホールが個性的な女性を好演。さらに何といってもエマ・トンプソンでどうでもいい『ハリー・ポッター』の役どころの無駄っぷりを吹き飛ばす快演をみせます。ダスティン・ホフマン演じる教授もよいアクセントとなっています。
この作品はあのハル・アシュビーの『チャンス』のような雰囲気があります。そう、少なくとも喜劇が悲劇よりも雄弁に人生を物語ることができるということを静かに私たちに語りかけているあの雰囲気です。そして喜劇にも数多くの名作があることをあらためて証明する作品でもあります。
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