「夕凪の街 桜の国」
原作のコミックを紹介するために一昨年書いた文章を転載します。
読み終えたときには、その物語を受け止めて、私はただ息を大きくはくことしかできなかった。しかししばらくしてその物語に思いをめぐらせたときに胸がくっとあつくなった。そしてもう一度読み返したときには、ただ涙するしかなかった。同じく広島を背景にしたマンガ『はだしのゲン』が怒りと叫びでつづられているとすれば、祈りと希望でつづられた物語、それがこの『夕凪の街 桜の国』だと感じた。
この物語は3部構成になっている。そして3つの物語の表情は大きく違う。それが大きな魅力になっている。
最初の物語は、ただ言葉を失うしかない絶望の物語。声高でない分、余計に心にしみるし、何気ない言葉が私たちの胸をえぐる。ただこの物語が広島を背景にしている以上、ある程度読者として想定していた部分であったことも事実だ(それでも見事な描写であることにちがいはないが)。しかしこの作品が凡百のものと一線を画すのは最後である。ここで作者は彼女の死の後に残された人々がいることを明確に提示する。さらに作者は2つめの話から物語に登場する女の子の母親の幼い日に、1話で死ぬ女性との楽しい日々を示すひとコマを入れている。本編の終わった後に描かれたであろう、このつなぎのカットが後で作品の方向性に重要な意味を持ってくる。
2話は少女の思い出の物語だ。ひとコマひとコマが美しい。そしてひとコマひとコマが切ない。しかし一見すると『スタンド・バイ・ミー』的なノスタルジーでくくられるこの部分には、ぬぐいきれない死の影がつきまとう。少女がカギを開けて家に入るとき、少女が病院をたずねる時、少女が野球をする時。それは母の死であり、被爆によるものかもしれない弟の病気であり、父からの影響である。そしてひとつひとつを考えるときに、我が身に突然ふりかかってくるかもしれない死に対する反動であるがゆえに生への強烈なあこがれが伝わってくる。
そして第3話で物語は穏やかに物語を終える。そこにあるのは日常へのいとおしさであり、大切な人を愛する気持ちである。「そして確かにこの2人を選んでうまれてこようと決めたのだ」という台詞が、あざやかな桜の舞う町並みの美しさとともに、私の胸に深く刻まれた。時の流れをわずかなページでおさめてしまう鮮やかさは、すでに多くの作品で試みられているが、語りすぎないこの物語の見事さは、後で読み返したとき、そうあの1話と2話のつなぎのカットのように、読者に新しい発見をもたらしてくれる。
漫画という表現は絵と言葉で物語を紡ぎ出している。この漫画の素晴らしさは多くの芸術に共通する部分と、漫画ならではの部分がある。まず偉大な文学がそうであるように行間を読みとるだけの深みが存在することだ。読者の想像力を大いに刺激し、ひとコマひとコマの向こう側を読みとることは何と魅力的なのだろう。また漫画ならではの部分として本と同じように自分のペースでめくりながら、文学とは異なり一枚の絵で文章1ページ分の表現をしてしまう点である。この物語は私たちにゆったりとかみしめて読むことを求めている。そしてそれがぴたっとはまるころに、私たちの目の前に桜の舞う町並みがひろがるのだ。あの桜の舞う町並みに私たちが涙してしまうのは、その絵の美しさにであり、その絵のあたたかさにであり、この絵とこの言葉でしか成立しなかった物語になのだと感じる。こればかりは文章ではどう逆立ちしても表現できないし、映像でも難しいことだろう。
※映画版レビューはこちら。
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