『きみに読む物語』
☆☆ 演出スタイルがあっていない。
むかし4コママンガでこういうのを読んだことがあります。あるシナリオライターが絶対に先が読めないシナリオを書いた。でもキャスティングボードの最後に大物女優の名前が出てきて、観客が「犯人はこいつだ」とわかってしまうというオチ。この映画はそれに近いものがあります。はじまってすぐにネタはわれます。だってそうとしかとれないんですもん。問題はそんな小説をなぜ映画にしたのか。そしてなぜこういう映画にしたのか。
まず前者に関してですが、これはどう考えても映画向きじゃないです。なぜなら読者のイマジネーションで感動させる物語だから。この映画には燃え上がる若い2人のロマンスパートと老夫婦のパートがあります。そこをつなぐのが読者のイマジネーションで違和感をなくしています。しかし目の前に映像のような形で現実が出てくることで嘘くさくなり、しらけてしまうタイプの小説なのです。イーストウッドがどうしようもない三文小説『マディソン郡の橋』を映画にする時、現実の惨めさを映像の力で浮き彫りにしたことで、凡百のロマンス映画とは一線を画した出来にしました。しかしこの映画ではそれをやってしまうと作品が死んでしまいます。ではどうするかとなって、この監督のニック・カサベテスは至極正攻法でナチュラルな芝居を要求する演出スタイルを選択するのですが、これが場面ごとに雲泥の差となって現れるのです。彼の「ミルドレッド」のような小品や、『ジョンQ』のようなドラマはそれでいいでしょう。しかしこの映画のように燃え上がるラブロマンスを描くには不向きです。でもいいシーンもあります。老夫婦の場面はこの演出がぴたっとはまるのです。こうして最終的にはアンバランスな作品になってしまいました。以下ネタバレ(ドラッグ&反転でお読みください)>だったら回想シーンをぶった切るぐらいの感覚で絶対に老夫婦を主軸にした展開にするべきでした。そうすればあの物語が実は自分たちだったところに驚きとカタルシスが生まれます。そして陳腐なロマンス描写も減ったはずです。韓国映画『ラブストーリー』はベッタベタな恋愛物語に比重を置いて、そこを徹底的にロマンチックに描きました。そして謎解きのカタルシスはハッピーエンドに通じるところにうまく着地させて構成上のぶれをなくしました。そういう工夫が欲しかったのです。ジェームズ・ガーナーとジーナ・ローランズはいいですね。それからジョアン・アレンも儲け役です。
というわけで泣ける系の作品ですが、後まで心に残る作品だとは言えないできあがりです。
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