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2006年1月18日 (水)

『ビッグ・フィッシュ』

☆1/2 奥のない人物描写ではドラマは描けない。
 ティム・バートンとは相性が悪い私(でもやっぱり「みようかな?」と思わせる魅力は企画にあるのでしょう)。というわけで本作は、彼にしてはめずらしい親子の葛藤をテーマにしています。バートン自身が自らの境遇の変化と成長を理由にあげていましたが、その裏を返すならば、彼の本質には何の変化もないということです。作品としては微妙な仕上がりになりました。(以下微妙にネタバレ)
 この映画のポイントとして、お父さんの話が本当なのかウソなのかというところがあります。この処理をバートンは誤りました。前半の与太話にはさしたる驚きがないままなのに対して、ヘレナ・ボナム・カーター演じる女性がお父さんとのエピソードを息子に語り始めるところから、俄然物語展開が躍動してきます。ところがこの前後の息子の心理変化をあっさりと通過してしまったために、肝心の父の臨終の場面がいきてこないのです。死に際に息子が父に真実ではない話をしますが、そこには息子が父の話が大好きであったこと、そしてそんな話を伝えてくれた父への感謝があったことが見え隠れします。つまり父の話が真実かどうかが問題なのではなく、父が息子に何を伝えようとしていたのかが重要であるということであり、バートン自身がそういう構成にしているにもかかわらず、話のクライマックスの置き方を間違えたために、それが台無しになってしまいました。一番問題なのはラストの葬儀のシーン。あれは蛇足以外何物でもありません。真実かどうかはどうでもいいと思った息子の目の前に与太話の登場人物(もしくはそのモデル)が現れる必要はあったのか、そして父の臨終の場面で観客も理解したことを、なぜあそこでもう一度なぞる必要があるのでしょうか。
 バートンの最大の武器はイノセンスですが、結果的にそれが最大の欠点にもなっています。個性的な人物を造形するものの、実は逆にステレオタイプなキャラクターも多く(本作でいえばお母さん。典型的なアメリカの母だが、父と母がなぜ心の奥深いところで結ばれていたかに、まったく説得力がないのは、母の描き方が陳腐で浅いため)のも、彼が多面的に人間をみつめるということをしないからなのかもしれません。その稚拙なストーリーテリングと奥のない人物描写は彼の限界を示しています。人間をみつめるということができない限り、彼のドラマはうわべだけの空疎なものから脱出できないでしょう。

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